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4年前の震災後数ヶ月。そして今も思うこと。

2015年3月11日

社長日記

あの忌まわしく、そして日本国民を恐怖と悲しみのどん底に突き落とした東日本大震災。
発生直後、私達は東京都等々力の屋根のリフォーム現場で作業しておりました。

発生時間は14時46分18秒。

建築業界には10時と15時に”一服”と称される休憩時間があります。あの日は順調に作業が進み、先が見えてきたので早めに屋根から降りて一服していました。
「ズドーン」という衝撃と共に激震。私達は廃材を入れるトラックにしがみついたのを憶えています。
揺れが落ち着いたと同時に手掛けていた物件のお施主様が玄関扉を開き、開口一番に「皆様、大丈夫でしたか?」傍らにはまだ幼いお子さんが。
お子さんは今まで経験したこともない大きな揺れに際し余程怖かったのでしょう。
小さな体を震わせるほど泣きじゃくっていました。
「私達は大丈夫です。お客様も大丈夫でしたか?」と聞き返すと、「物も倒れず怪我もありません」と応え一同胸を撫で下ろしました。
が、一服を終えて屋根に上がるとそれ以前の光景とは違う町並みに愕然としました。
遠くに数カ所の火事場であろう煙が立ち、そこかしこから救急車両のサイレンがけたたましく鳴り、視線を変える度に近所の屋根が崩れ破壊されていました。

「これは大変なことになるぞ」

私は直感的にそう思いました。あの震災。その日から数ヶ月、忙しく動き回る日々が待っていようとは、私自身思ってた以上、正しく想定外でした。

崩れた屋根を雨漏りしないようにだけ応急処置を施す日々


明くる日からお世話になっている屋根工事の施工店様、屋根材問屋様からのご依頼で東京、川崎、横浜近郊を崩れた屋根を応急処置するため目まぐるしく移動する日々。
東京23区で震度5弱以上。5強という地域もありました。

「5弱でこれなのか」

大地震の恐怖。もちろんのこと東北地方は震度5どころではないですが、関東もかなりの打撃を受けたのは言うまでもありません。

川崎から栃木へ出張。自分なら貢献できる!これならできる!と感じて

あれは3月半ばくらいだったと記憶しおります。私に一本の電話が。

「南さんに頼みがあります。私と一緒に栃木まで行ってください」

お世話になっていた施工店の番頭さんは、短い言葉ながらもどこか覚悟が伺える雰囲気で私にそう懇願してきました。

しかし頭をよぎったのは福島の原発。

2011年3月11日に福島第一原発は津波襲来により全交流電源喪失により冷却機能を失いました。
翌12日1号機建屋が水素爆発、翌々日14日3号機建屋が水素爆発、その翌15日には4号機建屋が水素爆発と一つ間違えれば原子炉自体の大爆発により東日本壊滅という切迫した状況でした。
3月半ばというと自衛隊がヘリコプターで上空から海水投下、地上から放水して3号機の燃料プールの冷却に必死になっていた頃です。

色々なことを考えました。もしもチェルノブイリ事故のように原子炉ごと大爆発すれば川崎でさえどうなるか分からないのに、福島に隣接する栃木まで行って大きなリスクを取って行くべきか行かざるべきか。

行く先は栃木県真岡市。なんでも番頭さんの知人の知人からの懇願だったらしく、現地はひどい有様で県内の瓦屋さん、屋根屋さんだけではとてもではないですが間に合わない状況だということでした。
正しく破壊された地域の状況をメディアで知り、無力感に苛まされた国民は多かったと思います。
私も間違いなくその一人でした。

「これならこんな私でも被災地に貢献できるのではないか」

自分で出した答えは「ぜひ行かせてください」でした。

現地は想像以上の有り様。「全ては復元できない。」

工事は2期に分けて実施することになりました。なぜか?生産工場自体が被災していたり、物流が寸断されていて極度に材料を調達できなくなったからです。
スーパーやコンビニの棚はガラガラ、ガソリンスタンドは長蛇の列か休み、トイレットペーパーやティッシュペーパーや飲料水も無い(買い占めの影響もありましたが)、そこら中で品不足、燃料不足が続きました。
我が業界でも同じで直そうにも直すために必要な材料が手に入らない、そんな時期でしたので取り敢えず1期工事としてブルーシートで屋根を覆って、最低限雨が漏らないように応急処置のために栃木県真岡市へ向かいました。
向かう途中、高速道路を走るのは物資を運ぶ車両や自衛隊関係の車両ばかり。
やはり普通ではありません。
近づくに連れて町並みや集落の建物が著しく破損しているのが一瞬でわかる風景。

「心してかからないと」

心中はもっぱら自衛隊のような感覚とでも申しましょうか。
「自分の手で、自分のスキルで貢献したい」が先に立ってアドレナリン全開。
その時は既に原発のことなど頭にはなく、ただ自分がやれることをやりにいくという使命感だけでした。

現場に到着するなり見た風景に愕然。至る所に被災の爪痕がありました。家の外壁、サッシ周り、基礎、道路、そして屋根。

真岡市の被災時の震度は6強。

すぐさまお施主様にお会いして「遠くから本当にありがとうございます」とのお言葉をいただき、直ぐに段取りをして作業開始。
屋根に上がると数回に渡って緊急地震速報のあのゾッとする音が鳴ります。もちろん足場はありません。あの当時何回あの音に覚悟をさせられたか数えられません。
遠方でしたし、状況も状況でしたので少数精鋭でしたが何とか一日で屋根を復元。
ホッと胸を撫で下ろす私達とお施主様。
ですが屋根の上から周りを見渡すと酷い惨状。
数えるのも嫌になるほどに破壊された無数の屋根。
そして直してあげたいのに、その材料が手に入らない。
歯痒さ、申し訳無さ、悔しさ。直せたのはたった1棟でした。

そんな心が満たされない(思い返しますとこれは自己満足だと思います。大変失礼ですが。)私に、お施主様が「南さん、男のお子さんがいらっしゃると言ってましたよね。遠くから本当にありがとうございました。私達には何もできませんが貰っていただけます?男の子でしたら喜ぶと思って。」と大きなオオクワガタが入ったケースを差し出してくださいました。

お施主様はどんな想いでそうしてくださったか。

真岡での経験があり、その後は可能な限り被災地近郊へ。必要とされるなら。

最初の予定とおり真岡ではたった1棟しか直せませんでした。
ですが私には「これなら貢献できる。」という実感と、お施主様からいただいた大きなクワガタが残りました。

その後、4月になり春の訪れ。

この頃になりますと復旧・復元工事は、東京近郊からいわゆる被災地に隣接する地域へと移っていきました。
私は某ハウスメーカーの依頼で、つくば市、水戸市に出張へ。
この時に感じたのは、ハウスメーカーの対応の早さと職人を全国から呼べる優位性。
全国に支店、支社を構えるハウスメーカーだからこそできる職人の手配。
名古屋、大阪はもちろん、広島、遠く九州ナンバーで駆けつける職人達。
ハウスメーカーと言えばブランディング力、施工の均一さ、一定のクオリティーの高さを保つ職方と管理側の組織力なのですが、災害に対しての事後処理の早さには驚かされました。
行く支店、行く支店で「遠いところすみません。助かります。ありがとうございます。」といわゆる支店長クラスの方々が、全国から集まる職人達に深々と労いの意と感謝の気持ちを伝えていました。
何とか助けてくださいと。
なるべく長く居てくださいと。

職人は気持ちで動くところがあります。これが良いところでも、悪いところでもあるのですがね。

意気に感じると言いましょうか。
これがせっかく遠方から来ているのに素っ気ない態度で対応されると、唯でさえ慣れない土地での出張ですしモチベーションは保てません。

ですが出張期間、生活には困らない環境と手厚いサポートを提供していただき、私達は現場に集中できました。
結果、お施主様の大切な家は雨漏りの危険性を回避でき、元通りに復元、更に耐震化を実現。
そんな心を込めて復元させていく職人達に対し輪をかけて、心尽くしの10時と15時の美味しいお茶とお茶請けと感謝のお言葉。
そして震災直後の不安と恐怖を吐露しなければ、誰かと共有しなければ心細かったと言わんばかりにお話してくださいました。

真岡での「1棟しか復元できなかった」もどかしさから始まった、つくば市、水戸市と出張していく毎に増えた復元された屋根。

「職人で良かった」と感じた、いわゆる3.11からの数ヶ月。

忘れようにも忘れられない日々。
忘れてはいけない数ヶ月になりました。
一国民としても屋根職人としても。

「忘れない」は当たり前。風化させないためにより一層のできることを考えたい。そして実行する大切さ。

「震災を忘れない」とよく言うのですが、それは最低限であり忘れるわけもない災害なわけです。
私は、ここで記した復旧作業の経験後、子供二人と妻と共に作業する弟と被災地を周りました。
行くことで貢献できることはあると判断したからです。

旅行ではありません。ここはセンシティブで難しいところです。

一国民、1人の人間としてできることは限られています。
自身で考えられること、他人がしたこと、メディアで得た情報でできることは、可能な限りその時点でやったつもりです。
できた事が足りてるかどうかはわかりません。そんな相場はありませんし。
政府はもちろん、各々の国民ができる小さなことを積み重ねていくこと、そしてそれを継続できなければ被災地の復興は叶いません。
こうして声高に言うのも少し偉そうなのですが。

いつまで?それは私ごときにはわかりません。
わかりませんができることを、やれることをやっていくことを私は忘れません。

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